映画DVD。
2009年09月28日(月)
映画DVD「闇の子供たち」を観ました。
タイでの、児童臓器売買、児童売買春をテーマにした映画です。

想像していた通り、見終わった後は、
いたたまれない気持ちになりました。

タイには何度か行っているので、
噂では聞いたこともありました。

映画にフィクションの部分があったとしても、
それに近いことが行われているのだと思います。

描写された映画の表面だけを捉えると、
「どう考えてもあかんやろ」
とやるせない気持ちになります。

ただ、この映画を観たから、タイには行きたくない、
と単純な発想は避けたいと思っています。

僕の勝手な解釈ですが、例えば、映画の登場人物に、
「悪い人」「悪くない人」
という区別をしていきます。
すると、「悪い人」は結局、売買組織の元締めだけになります。

そして、「では、このボスは本当に悪いのか」
「他に問題はないのか」と考えるのです。
「需要があることも問題ではないのか」
と考えた時、登場人物に本質的な悪い人はいなくなるのです。

冷たい言い方ですが、これがタイという国の一部分なのだ。
ということだけなのです。

もちろん、許されることでも、
ほうっておいていいことでもないと思います。

ただ、今の僕には直接どうすることもできません。
この問題は一人で考えるにはあまりにも重い。

宗教に逃げるとこうなります。

「人は生きている方が辛い。なぜなら人生は修行だから。
涅槃という悟りの境地が、死にあるのなら、辛いのは残された人だけ・・・」

宗教だって違う面から見たら無茶苦茶です。

僕が、タイという国にできることが一つ見つかりました。
小さい、小さい話ですが、
「タイの表の社会に旅のお金をたくさん落としてくること」
タイという国が、全体で今よりも豊かになればいいと思うのです。

なんだか、しょぼくて無理やりですが、
それでもタイはいい国だと思うのです。
2009-09-28 | 記事へ |
信用。
2009年09月21日(月)
その言葉自体はいいけれど、
声に出すと突然軽くなったり重くなったりする言葉があります。
「親友」や「信じてる」です。

「俺とおまえは親友だよな」
と言った時点でなんだか怪しい親友です。
親友はいてもいいのです。
でも、言葉に出してしまうと軽くなってしまうのです。
例えば、
「親友だろ?助けてくれよ」
なんて言われると詐欺の臭いがプンプンします。

それと、「信じてる」です。
信じることはいいのです。
でも、声に出して、
「信じてるから」
と言ってしまうと、重い上に信用度は半減します。
言わずに信じているのが一番いいのです。
言ってしまうから、「裏切られた」となるのです。
言わなかったら、相手は知らないわけですから、
裏切ったことにはなりません。
信じる相手を間違っただけです。
相手のせいにはできません。

奥さんが遊びに行くのを快く見送る友人がいます。
彼の口からは「嫁さんを信じてるから」
なんて言葉は聞きません。
「なんで?別にええんちゃうの」
という言葉に『信じてる』を垣間見るのです。

信用されている、というのは、
わざわざ言われなくても分かるものです。
わざわざ言ってしまうのは、
「信じたい」からだと思うのです。
2009-09-21 | 記事へ |
| 結婚・恋愛論 |
哲学週間。
2009年09月13日(日)
今週は金曜日以外は暇でした。
経営者としては喜ばしくないのですが、
その分、お客様と深い話をたくさんさせてもらいました。

「彼女と女友達の違い」から始まって、
あくる日は「生と死」の話。
これは、「死がないと仮定したら」なんてことから始まりました。
次の日は、「幸せの定義。足るを知る」
なんて感じのテーマでした。
他には、以前BARを経営されていたという方に、
「こだわり」について色々と聞かせてもらいました。
その方が、
「ここは、グラスが全部上を向いているのが気に入ったんよ」
と言って下さいました。
別の方で、愛人論の話も楽しかった。
愛人の暗黙のルールってあるんですよね。
店がずっと暇だと困りますが、
こんな日替わり哲学週間も僕の糧となります。

このような哲学サークルがあったら大学に行ってもいいな、
と一瞬思いましたが、「二十歳の愛人論」よりも、
「三十歳の愛人論」の方がきっと深いだろうな。
と思うと、やはり学生じゃない方がいいな、
なんて思うのです。

社会人の哲学は、
「ここまでこだわっても店をつぶした」
というなんだかもっと深い話になるのです。
2009-09-13 | 記事へ |
友達と恋人。
2009年09月08日(火)
「彼女と女友達との違いは何でしょう?」
という話をしていました。
こんな話は大好きです。
男女逆でいうと「彼氏と男友達の違い」という話です。

感覚ではちゃんと区別できています。
それを、どうやって言葉で説明するかが楽しい。

「Hするか、しないか」
というのも分かりやすいです。
でも、「Hしたらみんな彼女なのか」という議論になります。
これだけでは心もとない。
「何でも言い合える」
「より大切な方」
というのも微妙です。
10年来の女友達と、先月付き合ったばかりの彼女を天秤にはかけられません。
「結婚を考えているか否か」
これは、恋愛の延長が結婚だと考えている人にはあてはまるかもしれません。
結婚はパートナーシップという考え方なら、
友達の方がそれに近いこともあります。

もちろん、考え方は人それぞれなので、
一概にこれ、という答えはないと思います。

僕の場合はこう定義してみました。
一つは、
「守ってあげたいかどうか」
友達に対しては、「守ってあげる」という感覚はありません。
何かあれば助けてあげたいとは思います。
でも、「四六時中守ってあげなきゃ」というのはありません。
もう一つは、
「自分が浮気をした時に、罪悪感を感じるか、感じないか」
これは単に、違いを言葉にしようとしただけです。
例えば、浮気をしてしまったと想像した場合、
彼女に対しては罪悪感を感じると思います。
でも、女友達に対してはないと思うのです。

と、ここまでは昨日話していた話です。

人と人は何か見えないもので繋がっているような気がします。
彼女と自分、女友達と自分というのも何かで繋がっています。
その繋げているものがそもそも違うとも考えるのです。

そして、ここまで書いて気が変わりました。

彼女と女友達との違いは、自分との間にある哲学の違いです。
女友達が友達のままなのは、
恋愛という共通の哲学が一致していないからだと思います。
それがお互いに、「ま、えっか」という哲学になった時に、
Hをして恋愛に発展したりするのではないでしょうか。

法的に結ばれていない二人が結ばれているのが恋愛です。
これを繋げている見えない何かがあります。
好きや嫌いだけではもって3年です。
共通の恋愛哲学がその見えない何かだと思うのです。
2009-09-08 | 記事へ |
| 結婚・恋愛論 |
バンコック・リゾート。
2009年09月05日(土)
海外のホテルのプールサイドには、
いつも白人の旅行者が寝そべってくつろいでいます。
本を読んだり、日焼けをしたりと、
時間をのんびりと使っています。
以前までは、
「せっかくなのにもったいないな」
と思っていました。
でも、どこかで憧れていたのです。

海外に行って何もしない。

これは贅沢だと思います。

今回の僕の目的は、そんなリゾートタイムです。

朝はスポーツジムで体を鍛えます。
そして、プールでアイシングをしてくつろぎます。
お腹が減ったらタクシーに乗ってフードコートへ昼ごはんです。
ご飯の後はコーヒーを飲みながら、本を読みます。
お尻のポケットには常に文庫本が入っています。

眠たくなったらマッサージです。

オイルマッサージがよく眠れることを発見。
本を読みながらの足裏マッサージもグッドです。

フードコートなら満腹食べて300円以内です。
屋台ならもっと安い。
マッサージはだいたいどこも一時間800円くらいです。
もちろんチップを払うので、いつももう少し払っていますが。

三日もすれば体調が万全になっていることに気づきます。
軽いのです。
筋トレをしても、プールとマッサージで筋肉痛になりません。
更に体を動かしているので、ご飯がよく食べられるのです。
タイ料理も今回はたくさん堪能しました。

時間に追われることなく、
時間が余ることにあせらず。

有限でも無限でもない時間を感じる。

それは、時間を忘れるということかと思います。

白人的リゾートにはそんな優雅さがあります。

考え方一つで日本でも叶います。
それでもバンコクに行くのは、
ここから5千キロも離れているからです。

何もかも違うところで、非日常ではなく、
日常を作る贅沢を覚えてきたのです。
2009-09-05 | 記事へ |
| タイ・バンコク・プーケット |