友達が面白いことを言っていました。
「ネットだけの友達ってどうなん?」
と。
ネットでしかやりとりをしていない友達も、
友達といえば友達です。
それはそれでいいのです。
でも、
「『他の人には言えないことも言える。だから顔を合わせてなくても友達』
って、そら顔も知られてない相手に自分の部屋でリラックスしながらやったら、何でも言えるやろなぁ。
それが友達なのか?」
という話でした。
なんだか説得力があります。
何でも言えるから友達、なのか、
友達だから何でも言えるのか。
更に、何でも言えるから友達なのか?
ということです。
友達だから言いたくないこともあります。
それは友達ではないのでしょうか。
逆に、何でも話してくれるから友達なのでしょうか。
本人が友達と言えば友達なので、別に定義をする必要はないと思います。
未来では、ロボットと友達になったり恋愛したりすることになるのでしょう。
その時、この人達は柔軟に対応できるのではないでしょうか。
現に今、チャットしている相手がコンピューターかもしれません。
活字なのでそれはあり得ると思います。
そして、その事実を知らされた時に、
「え?そうやったんや?でも、めっちゃええ奴やったから、
別にコンピューターでもええわ」
となるのかも知れません。
一度ニューハーフの人と付き合ったことのある人は、
もし好きになった人が実は男だったとしても、柔軟に対応できると思います。
今、コンピューター相手に恋愛している人も同じことができるのです。
これは、これからの柔軟性の話です。
テクノロジーの世界は、想像以上に進んでいるそうです。
『技術が発達して、将来、死ぬことは選択可能なオプションになる』
という話を聞きました。
そんな未来が来ると思います。
何がいい、悪いの話をしているとついていけません。
そういうことがあるんだな、と柔軟になっていく必要があると思うのです。
そして、その時に、
「俺は、何でも言えるから友達ではなく、友達だから言えることも言えないこともあって、
ただ、友達だから言いいたいこともあっていいよな。
って、これが友達かな」
と、自分なりの定義を持つことが大切なのだと思いました。
技術の進歩や時代の流れについていけなくても、
自分の軸があれば、それを受け入れ真っ直ぐに歩いていけるのです。
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